映画レ・ミゼラブル(2012年)感想
トム・フーパー監督、ヒュー・ジャックマン主演のミュージカル映画レ・ミゼラブルを見た。
Amazon video で48時間レンタル200円だった。
ああ無情や銀の燭台で知られるヴィクトル・ユーゴーのレ・ミゼラブルを読みたいと思いつつ読まずじまいだったので映像というのはちょうどよかった。
民衆の歌 (Do You Hear the People Sing) がいい。俺も大きな旗振りながら歌いたい。ぜったい気持ちいいでしょスタジアムで応援歌歌うようなもんだし。
1. 愛
これは愛の物語と評されることが多いがまさしくそうだ。愛と一言にまとめるのが短く美しいからというのもあるが、もちろん様々な愛がある。
司教がジャン・バルジャンを許したのはもちろん agape だ。ジャン・バルジャンがファンテーヌの娘コゼットを引き取ったのも agape だ。その agape が最も強く印象づけられるのは捕らわれたジャベールを逃がす時に違いない。バルジャンを追う敵すらも愛する、許すのだから。
対して eros もある。マリウスがコゼット見初めるのは eros だ。コゼットもマリウスの eros に応え2人は結ばれる。その陰でエポニーヌの eros はついぞマリウスに気づかれぬままであった。同じ eros ではあるが、見返りが無いとわかっていてもマリウスのために奔走する姿はどこか agape のようでもある。とはいえ過去コゼットに辛くあたっていたツケが回ってきただけとも言えるし、エポニーヌは最後までずっとマリウスに振り向いて欲しかったのだからやはり eros だろう。
ABCの友は philia だ。決起前夜に迷っていたマリウスが最後にはアンジョルラスの所で革命を決意したのは philia だろう。六月暴動が失敗に終わり追い詰められ今まさに銃殺されんとするアンジョルラスのそばへ旗を持って並んだABCの友はまさしく philia だ。友を一人で死なせはしないという意思からの行動だ。
2. 赦し
(1)他人による許し
軒下で野宿しようとしていたバルジャンを教会に迎え入れ、一宿一飯の恩義を銀食器の窃盗という仇で返されようとも許すどころか司教は残った銀の燭台まであげてしまう。「これを使って正しい人間になりなさい」と。
今この時主は司教と共にあられたのだ。司教の「神のご意思なのです」という言葉通りに。ジャン・バルジャンが20年ぶりに人として扱われた日だった。世界に絶望していたバルジャンに希望の灯火を与えたのは司教だ。これがバルジャンの福音だった。福音に触れたバルジャンは悔い改めて過去と決別し改心してマドレーヌとして市長に任ぜられるほどの信を得た。ジャン・バルジャンが司教の赦しを忘れていないことがone day more のシーン前で銀の燭台を持って逃げようとしている場面でわかる。
1. でも述べたがスパイがばれて殺されそうになっていたジャベールを逃がすのは赦しだ。「警部の役目を果たしただけだ」と人を憎まず許すことが神の教えだからだ。
(2)自己による許し
バルジャンによって助けられたマリウスが一命を取り留めた後にABCの友のアジト跡地へ訪れ Cafe song を歌うシーンではマリウスが「友よ許しておくれ一人生き残った僕を」と許しを乞う。しかしABCの友はもう誰もいない。ではマリウスを許してくれるのは誰か、それはマリウス自身しかいないのだ。マリウスの命はバルジャンに救ってもらったものだ。愛を誓ったコゼットがいるし、祖父とも仲直りした。マリウスをつなぎとめるものがあったからマリウスは自らを許し前に進むことができたのだ。
(3)許しを受け入れられなかった者
では許されなかったものはどうなるか?
テナルディエ夫妻はマリウスとコゼットの結婚式に乱入して金をせびろうとするも追い出された。狼藉は許されなかったが、別に死んではいない。
だがジャベール身投げした。ジャベールはバルジャンに許され逃してもらい、さらにはマリウスを救出するために地下水道をくぐり抜けたバルジャンを撃てず見逃した。これはバルジャンを許したかのように見えるがそうではない。バルジャンに逃された時に法の番人ジャベールはすでに死んでいたのだ。
ジャベールは法を厳格に守ることで自己を確立していた。法に執着するのは彼の生まれも関係あるのだがそこは本筋でないため割愛する。だから仮出獄からの脱走犯であるバルジャンが法の番人ジャベールを助けたという事実にジャベールは耐えられなかったのだ。バルジャンは脱走犯なのだからその行動は間違っていなければなかった。しかしバルジャンは敵対しているはずのジャベールを処刑から逃がし命を救ったのだ。それは正しい行いだった。ジャベールはバルジャンの許しを受け入れることができなかった。それは法を否定することになるからだ。セーヌ川に入水自殺したのは脱走犯に許されるという矛盾した自分を認めることができなかったからだ。