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キリスト教の言う小さくされた人を助けよとは何か

2019年11月23日、ローマ教皇フランシスコが来日した。

ローマ教皇、訪日:時事ドットコム

 

来日前のミサでローマ教皇

「『キリスト者である自分には、少なくとも1人の貧しい友人がいるだろうか』と自らに呼びかけるように。」

と述べている。

ローマ法王が困窮者1500人招き昼食会、無償の専門医療も - ロイター

曰く、貧しい人だからではなく小さくされた人だから救いの手をさしのべる必要があるらしい。

この番組ではホームレスに小銭や食料を恵む人の姿が多く見られる。

 この動画はディスカバリーチャンネルの元イギリス陸軍人が様々な環境で60日間サバイバルする番組である。今回はなんとイギリスの路上でホームレスとしてサバイバルだ。Ep. 1 で過ごすマンチェスター、Ep. 2 のロンドンはどちらもイングランドイングランドではキリスト教が人口の75%を占める。厳密には英国国教会カトリックに分かれるが。

ホームレスに恵む人すべてがキリスト教というわけでもないだろうが社会的弱者であるホームレス、すなわち小さくされた人を助ける現場をこの番組は映している。

 

ここで疑問が生じる。

 「小さくされた人」とはいったい何なのか?

マタイによる福音書を軽く読んだことはあっても自分はキリスト教でないのでこの小さくされた人という概念がわかりにくかった。正直なところ「聖☆おにいさん」を読んだ程度の知識しかない。困っている人を助けましょうという意味合いなのだろうか。

それから、イエスが家で食事の席についておられた時のことである。多くの取税人や罪人たちがきて、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。
パリサイ人たちはこれを見て、弟子たちに言った、「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか」。
エスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。
『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。

しかしロイターのカトリックであるジャーナリストが書いたコラムでは

教皇フランシスコは、人が「困っている」からでなく、「小さくされた」から助ける。弱者に対してためらわずに手を差し伸べるという自然な発想と姿勢がある。 

コラム:ローマ教皇来日 日本が問われる「弱者への心」 - ロイター

とある。

ただ「困っている人を助ける」という意味と解釈するのでは違うようだ。

そのへんの教会に突撃して神父に尋ねる度胸もないしと適当に「小さくされた人」でググったところ、釜ヶ崎と福音 神は貧しく小さくされた者と共に(本田哲郎、岩波現代文庫という本が検索にヒットした。

釜ケ崎と福音 - 岩波書店

一人のホームレスとの出会いがエリート神父の生き方を変えた。人を根底から変える力は社会的弱者の中にあり、神の選びは貧しく小さくされた者の側にこそある。

というあらすじに興味を引かれて読んだ。このⅠ, Ⅱ章がたいへんおもしろかった。

福音がどこから来るか。それは貧しく小さくされた人の中から来るのだ。自分が貧しい人に施すことは貧しい人を助けているのではない。貧しい人から福音の力を与えられているのだと。マタイによる福音書にも

わたしの弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない(マタイ10章42節)

 とある。ではなぜ小さくされた人から福音の力が与えられるのか。

エスベツレヘムの馬小屋で生まれたとされる。生まれた時でさえヨセフの故郷なのに実家ではない。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである(ルカ2章7節)とある。宿の部屋がいっぱいだったからというが、故郷なら身重の妻を抱えてるヨセフを受け入れてくれる親戚くらいいそうなものだ。天使ガブリエルが告げた受胎を、マリアが父親のわからない子どもを身ごもっているとして受け入れられなかったのではないか。すなわち姦淫による不義の子だと。

そして誕生を祝いに来たのは東方の三博士である。ここでベツレヘム周辺の地図を見てほしい。

ベツレヘムの東は砂漠と死海で、さらに東は砂漠が広がる。それゆえ当時の東とは不毛の地の象徴であった。しかも東方の三博士たち占星術師もユダヤ社会で異端視される「罪人」であった。生まれた場所だけでなく祝う人ですらも小さくされた者だった。

またイエスの職業は大工であった、農民ではない。当時農地を持ってないということは貧しいことの表れである。しかも大工というのも石切で、粉塵で肺を病み早死する職業だ。救いの主であるイエスは小さくされた者だったのだ。

それから、イエスが家で食事の席についておられた時のことである。多くの取税人や罪人たちがきて、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。
パリサイ人たちはこれを見て、弟子たちに言った、「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか」。
エスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。
『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。(マタイ9章10~13節)

 このようにイエスは罪人とされた人たちと共にあった。

すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。(マタイ25章40節)

エスは小さくされた者と共にあるのだから小さくされた者を助けるということはイエスを助けることである。そしてそれは自らを助けることにもなる。だからキリスト者は寄付や慈善活動に熱心になるのだ。